2012年8月3日金曜日

覚書



西洋の伝統的な芸術に見られる美的概念は、理論的な秩序と明確に意識化された自我のもとに、緻密に計算され、作り上げられた構造的な美しさ無くしては語られない。



逆に、東洋的、日本的美的概念は、真逆である。整数的理論、自我、予定調和といったものと一線を画し、曖昧さという"濁り"を受け入れ、自然、宇宙といったおおいなるものの中に自分自身を解き放つことで、それらおおいなるものと自分自身の精神をコネクトさせるという、その一瞬にほかならない。



これら2つの相反する概念は、確かに矛盾しているように見えるが、人間の知識と経験が時代と共に進化、拡大してゆくことによって、おそらく互いに近づきつつあると考える。なぜなら、土地、歴史的背景、人種、社会が違うことによって、そのプロセスが正反対というだけで、おそらく目指す頂は同じであって不思議はない。なぜなら、同じ人間であり、そのルーツは極めて多くの人間に共通しているということは、遺伝子学的にも証明されている事実でもあるのだから。



しかしながら、人が自身の慣れ親しんだ方法を完全に一掃し、そこから自由なれると錯覚することは、人間の人生を形作ってゆくうえで欠かせない物語性を否定することであり、安直で無意味な愚かしい考えであろう。



[統一感のある西洋の伝統的様式美に敬意を払いながら、自身の精神に沁みこんだあいまいさを受容し、その相反する精神の間を自由に行き来すること]



あらゆる芸術表現の動機とはおそらく、人間の痛ましくも愛すべき普遍的矛盾をじっと見つめ続けることにほかならない。